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愛知県ペタンク協会と私
私が、フランスのスポーツペタンクの純粋な普及団体と信じて所属してきました日本ペタンク協会を脱会した理由を書きます。
ペタンク愛好家の集まりに違いはない団体間の交流を禁止したり、用品の販売によって得られる利益の独占化の手段に、団体で扱う用品以外の用品の使用を禁止したり、登録者以外の愛好家を差別するように指導する傾向を露骨に打ち出したからです。
私とペタンクとの出合いは岐阜日仏のイヴェントでした。
私は、岐阜日仏協会のイヴェントで東京の日仏文化協会の村瀬良臣氏を理事長とする日本ペタンク協会によりペタンクを知りました。昭和61年のことです。
和やかな遊びのイヴェントを岐阜公園で行い、手作りの弁当を持ち寄って1日を過ごしたことがなつかしく思い出されます。
家族参加が多く、平均年齢は30歳代であった記憶です。
昭和62年には岐阜市ペタンク協会として岐阜日仏協会会員が中心で40名ほどが会員登録をして、私は名古屋に住みながら、日曜日ごとに岐阜に出かけては岐阜公園の友愛広場(現在は中国庭園)でペタンクを楽しんでいました。
ただ、毎年の夏休みに、フランス旅行で見た街角の広場で、日本と全く違うペタンクを見て驚き、ペタンクというフランスのスポーツの調査研究を始めたのです。自由にフランス旅行がしたいがために、勤務も定年を迎えずして、早期に退職してしまったほどです。平成3年のことです。
すべてが個人負担で始まった愛知のペタンク。
平成4年に愛知県ペタンク協会設立準備室ということで退職金でマンションの一室を購入し、愛知県での普及活動を開始したのです。すべてペタンクが中心の生活になった感じでした。
三旺マンション第2新栄703号室で設立総会準備の役員会を開催し、6畳とダイニングの2間に、役員候補15名をお招きして設立打ち合わせの会を行いました。
協会からは設立準備資金が出るわけでもなく、設立準備室の1年間に、用品を斡旋した純益が4万円余あって、それだけが設立総会の基金でした。輪転機(リソグラフ)や紙折り機、パソコンや周辺機器などの投資は200万円程度あって、まったく道楽での愛知県ペタンク協会の運営が始まった感じでした。それでも、ペタンク狂の私と家内は、ペタンクを生活の中心の話題として楽しくすごしていたのです。
平成5年2月に、愛知県ペタンク協会設立総会を名古屋市国際センターで開催し、136名の会員数で発足したのです。これらはすべて記憶で書いています。
私にとっては紙くずとなった資料は、すべて、今の役員に渡してしまいました。現在、創立会員の方は殆ど退会されてしまったようですので、会長だけがすべてを知っておられることになるのでしょうが、もし、知って居られて、この辺りの事情をつぶさに記録できる方であったとしたら、私の犠牲を知りながら、それを強要して会長に居座っておられたことになります。逆に、なにも分かって居られないのなら、居られないで、会長職にあることだけを、手段を選ばず続けられていた方ということになるのです。
愛知県騒動?の発端は、設立以来5年目にして、やっと会員数300人に達する状態になって、私の事務作業関係での犠牲を考えなければ、なんとか財政的に成り立つようになった支部組織の運営に、よほどの魅力を感じたらしい数人の役員によって発生しました。
そうなった理由に、私は、会員の高齢化と専門性の低い日本のペタンクの状況に老後の社会的地位?を得たい人たちの欲望が重なったと指摘します。
気が付けば30歳以下の会員が一人もいない状況になっていたのです。
フランスでもペタンクは退職者のスポーツという人はいますが、日本の協会の現状は異常です。若者が根付かないスポーツでは困ります。
私が、会長に、辞任する気持ちに変わりがないことを伝えたとき「私の立場はどうなる」といわれました。これには正直なところ困りました。後任をどうするかのご相談であって欲しかったところです。
事務所を提供してやってることを止め、役員であることを辞め、1会員でやる。規約に定められているように、後任が決まるまでは理事長の責任でやる。その相談をしたいのに「私の立場・・・」は、驚きました。そのころ、ちょうどインターネットを始めて、フランスのペタンクのサイトを調べていました。フランスの制度が、委員会で成り立っていることがわかって、日本も同じようにすれば、いま起きている問題のようなことは起きにくいと考えていました。その構想をA4用紙1枚にまとめていました。愛知県の状況は日本協会へも、伝えていましたから、この案もFAXで送って、愛知県をテストケースとしてでも委員会をやってみたい。会長に提案してみる。と山崎理事長には伝えていました。
日本協会の不安と愛知県の役員数人の欲望でこじれ始めた。
私が役員を辞任した後は、会長には、会長職を、愛知県か、名古屋市かのどちらかの選択をお願いし、愛知県全域と政令指定都市名古屋市両方に強力に普及推進できる体制をつくって引退しようと考えた構想案に対して、「どうして両方の会長でいかんのだ」と主張されたことに端を発しているのです。
団体やクラブは、地域での活動がポイントになります。居住している地域を活発な活動体にした実績をもとに代表的立場で県の運営に参画する。役員の条件はその辺りにあります。愛知県協会の脆さは、居住地で活動母体を持てない役員が中心になっていたことにあったと考えています。西三河の活動が活発な地域に事務所を移して、運営をまかせるというのが私の提案でしたから、それでは、役員でなくなってしまうという心配をした愛知の一部の役員が会長を担いで起こしたクーデターまがいの役員会で、まだ理事長としての立場がある私を寄せ付けず、秘密の理事会を数回開催して現在の状況を作り出した騒動です。
なぜ、そんなことをしたのでしょうか?それは、日本協会の思惑と愛知県役員の思惑が一致したからです。
この顛末に日本協会がどのように絡んだかが問題です。
それは、ページを改めて書きます。
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